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ROBERT PLANT 2011.01.25 House Of Blues

九州は食べ物うまいけどしんどいわー

Robert Plant and the Band of Joy
2011.01.25
House of Blues, Boston


Taped by opsopcopolis

01. Intro
02. Nobody's Fault But Mine
03. Angel Dance
04. Down To The Sea
05. Rich Woman
06. House of Cards
07. Love Throw A Line
08. Please Read the Letter
09. Satisfied Mind
10. Satan Your Kingdom Must Come Down
11. Somewhere Trouble Don't Go
12. Tangerine
13. Twelve Gates to the City (w/ Wade in the Water and In My Time of Dying)
14. Houses of the Holy
15. Tall Cool One
16. Ramble On
17. Gallows Pole
18. Encore Break
19. Silver Rider
20. Rock and Roll
21. I Bid You Goodnight

去年10月からツアー再開したバンドオブジョイ、今年1月のライブ。まー精力的です

去年から始まった当バンドのツアー、セットリストの日替わりが激しすぎます
定位置の曲というのがほとんどなく、昨日アンコールでやってた曲が今日はオープニングとかざら・・・今日は終盤に演るからラウドに、今日はマッタリと・・・と、今日はこういう雰囲気で演奏しよう、という打ち合わせがあると想像されます。
セットリスト固定もそれはそれで練成の過程が見れて面白いですが、日によって曲順だけでなく曲の雰囲気までもガラリと変えてしまうのは凄いなと。このへんはプラントのこだわりだと思います。毎日同じことはやらんぞ、と
こちらとしても追いかけがいがあるというものです。

さてこのバンド、およそハードロックとは無縁のアメリカのルーツ系、カントリーゴスペルなど単純に盛り上がり辛い雰囲気で、ライブ成功の鍵は実はバンドではなく、その日のお客さんのテンションにかかってる部分があります。どういうこっちゃという感じですが、やはり「ロバートプラント」のブランドはハードロックであり、それを求めている客にこの空気はなかなかしんどいと思います
そのため異様なほどに盛り上がらない日もあったりして、白けた雰囲気すら漂っています・・・逆に最初から大盛り上がりで好意的な会場もあったりして、ライブってそんなもんという意見もあるでしょうが、このバンドはその落差がこと激しいです
盛り上がる=客との良い関係が築けていると思ってる節のあるプラントですんで、盛り上がる会場では自然バンドもハイで良い演奏が聴けます。これほど相乗効果が激しいバンドもないなと・・・静かな日の演奏も悪くはないんですけどね

この日は思い出の地ボストンということで、非常に良い雰囲気です。
60年代ZEPPELINの昔話にも華が咲いてます。プラントの機嫌が良い日はおしゃべりが多いですね。

ツアー再開直後ということで、いろいろ試しています。
オープニングの「俺の罪」はお初。この前後、日替わりオープニングで楽しいです。去年の「Monkey」が1曲目のような大冒険はしていないようですけれども。
ツアー開始の頃と比べるとだいぶメリハリがついてきた印象で、中だるみすることがなくなりました。新たに取り上げたZEPPELINナンバーが印象的で、「Ramble On」はこのバンドの雰囲気に嵌ってます。「Misty Mountain Hop」が落ちちゃったのは残念ですが。最初の頃だけやってた「Over The Hills~」は復活しないんでしょうか・・・かっこよかったですけどねぇ

手練揃いで臨機応変のバンドと一風変わった音楽演ってるプラントは実に楽しそうです。
ZEPPELINの影追う人たちからは相変わらず批判的に見られてますが、かの変態ハードロック「Strange Sensations」ですら「エスニック」一言で片付けてしまうような人たちには、なにを言ってももはや無理です。
60年代からの生き残りでは、「生きた音楽」をやれてる数少ない人だと思うんですけどねえ

『よみがえる国宝』展

久々大宰府、九州国立博物館。

『よみがえる国宝』展。

文書や絵ばっかで果てはちりとりとか言ってるんで当然見る気は起こらなかったものの、一つだけ引っかかって行くことに・・・まあ平常展示の観音様にでも会ってくるか程度の軽い気持ちで向かう。

入場料1,300円、高えなあ・・・展示はやはり文書中心。国宝だからって資料系のものを陳列するのは意味はあると思いますが、それを見て何か心動かされる何かがあると言われれば・・・
それら古文書や絵の類が昔からいかに保存されてきたか、また修復されてきたかが主旨です。なので文書そのものというよりはその周辺、箱や修理で外された掛け軸の軸などの展示が多い・・・
よみがえる国宝とはいいながらその実国宝はあんまり来ておらず、終盤など複製のオンパレードであります

さらっと見ていく中、当展覧会の主役が現れます。
超有名、一度は教科書で見たことある、誰もが知ってる顔…見覚えのあるやけに角ばった服装ばかりが目につきますが、近づくにつれ見えてくる。


神護寺・源頼朝像。


源

思わず足が止まる。息も止まる。
こらえらいこっちゃ

対象として見ることを許さない、否応なしにこの人物と対峙せざるをえない。
個性とか、この人の性格が分かるみたいなそんな次元ではありません。

ここに描かれるのはもはや人ではありません。「超越者」つまり「理想化」された人物です・・・これは人物を「見栄え良く描く」というようなヌルいものではありません。この意味でこの絵は肖像画の範疇にない

この感覚、凄い仏像の前にいるのと同じ。まさか「絵」に、しかも肖像画にここまでの力があるとは・・・
近寄ってみるとその技術的な破格に鳥肌立ちます。極限まで省略しながらたった一本の線で全てを現してしまう・・・特に眼の線の凄まじさは、三次元としての彫刻を超えています。
この絵にかかっては、絵の認識を改めざるをえません。なめてました

礼拝の対象だったのではないかとすら言われるこの絵は、「源頼朝」のイメージを決定的なものにしています。
どんな人物だったかとか歴史的業績とか以前に、この絵の前に立った人は頼朝を「分かる」のです。頼朝に対するこの絵、聖徳太子の法隆寺、空海の高野山のように、史実としての人物像はどうか分からなくても、その人物を偲んでこれだけのものが作られたというだけでも、その偉大さは保障されていると思います。ある意味では法隆寺が、高野山が聖徳太子であり空海なのです。

超越者だがあくまで人、という写実を基礎にした表現は、同時期の鎌倉仏に通じるものがあります。
宋の影響を受け、なんでもかんでも写実だったこの時期ならでは。似絵と呼ばれる肖像画の流れに位置づけられるようですが、研究者の間でもこの絵は破格、という扱いのようです。個人的にもいろいろ調べてみましたが、この次元にいる絵はなさそう(実際見てみればまた違うのかもしれませんけど)。宗教界見ても頂相画もまたちょっと違うなあと

・・・最近の研究では様式論から南北朝時代とする説が出て、議論は続いているようです。正直どうでもいいっちゃあいいですが、個人的には全てが形骸化しつつあったあの時代にこの絵がかけるわけない、と。
またここまで「神格化」しうる人物が頼朝以外いないし、まして新説に従うなら同時代の人間をここまで理想化できるか?と。

時間を忘れ、あわや飛行機に乗り遅れるところでありました・・・あぶねえ

空海と密教美術展③

もはやへろへろ・・・だが最後に当展覧会の目玉が待っているのです

立体曼荼羅

東寺・立体曼荼羅

密教の教義を視覚化した、密教を代表する群像。
「教義分かりにくいから見て分かるようにしよう」と発案した空海は、完成を待たずして高野山に死去しました。

東寺は折に触れて行ってるんで見る必要がないってことは全くなく、東京の展示らしく一体一体をぐるり360度見ることが可能です。寺では柱や他の仏が邪魔で一体をじっくり、ということがなかなかできないので嬉しい。
なにより今回ご出張されてる仏は焼失を免れたものばかりなので、東寺で感じる室町時代の仏像とのギャップがないのが非常によろしい。特にあの大日如来はいかんともしがた(ry

本来ならこれが空海の時代に最も近い仏像なのですが、いかんせん修理の手が入りすぎており、当時の姿を残しているとは言いがたいと思います。五大明王あたりは良い保存状態だと思いますが、特に菩薩などは半分以上が後補の部材に置き換わってしまっているため違和感を感じる箇所があります。金剛法菩薩の背面などあきらかにおかしい

菩薩の顔も今でこそ精悍ですが、かつては先の神護寺五大菩薩のようだったのではないかと。
同時期のしかも密教を代表する仏像が、神護寺などと違う様式で作られたとは思えず、ところどころに乾漆が残っていることからも推測できます。今回の展示で感じた艶かしさはここ東寺の諸仏にもあったはずで、そうであれば完成当時の立体曼荼羅が醸した世界は、ちょっと想像できません。

持国天の凄まじい表現や明王の作りこまれ具合はやはりこの近さでしか感じられないものです。
ただ今回はここに至るまでにこれに匹敵するものも数多くあり、正直疲れてしまうのも確か。東京での展示会は質量ともにとにかく凄いのが売りですが、ありすぎるのもまた難やなあと。

なんにせよ見ておかねば損、こと当時立体曼荼羅が出展されることは今後もいつあるかという感じです、是非。
・・・平常展でやってる運慶はとてもじゃないが見る気力なし、次回にしよう

空海と密教美術展②

入ったとこからクライマックス。

仁和寺

仁和寺・阿弥陀三尊
春秋にしか公開されない、仁和寺創建当初の本尊です。ち近い

まさに元祖和様、鑑真が持ち込んだ様式の発展形にして天台系薬師如来から平等院阿弥陀に至るその端緒といえる作風。
ぽっちゃりして目鼻立ちがぼやけてきてるあたりいかにも和様ですが、反面体躯はしっかりしていてまだ肉感が表現されているあたり、過渡期だなあと。

気品溢れた三尊ですが、それが逆にいかにも都風で鼻につく部分もあるかも・・・天平までの仏像が好きすぎる反動だとは思いますけども。
いやしかし、このレベルの仏像が脇役扱いってのも凄い。やはり東京は違うなあ

しかし右に眼をやると、

醍醐寺

はい凄いー
まさかこれが出てくるなど、思ってもみませんでした。

上醍醐の主、醍醐寺薬師三尊

醍醐寺よりはるかに近くで見れるため、その迫力も万倍。
「圧倒的」という言葉がこれほど合う像もないと思います、とにかく凄い迫力。

ディフォルメや恐ろしさで「神的なもの」を現そうとした平安初期の仏像の理想の形が、10世紀という形式化真っ盛りの時代に達成されていることに驚くばかりです。
様式としては平安初期に筍のように現れた異形の仏たちの流れながら、現れているものは室生や元興寺と同じと思います。

歪んでるしバランス悪いし形式化も見えると欠点だらけのはずが、どうしてかそれが欠点として映りません。むしろこのギクシャク感はこの像を魅力的にしている不思議。
この前後の法隆寺上御堂釈迦如来清涼寺阿弥陀三尊のようなどえらい仏像は、この像と表現こそ違えど10世紀の造仏技術の頂点を知らしめてくれます。どの像も形式化が進んでいますが、実は形式化とは一様式でしかなく、所謂天才の手にかかれば瑣末な問題ですらないということを教えてくれます。要は形式化が問題になるものというのは所詮様式に取り込まれてしまっているだけです。写実は必然だが前提でしかない、と。

あるラインまで近づくと足が止まります・・・近づきがたい。でも引き寄せられていきます
ここで一夜明かしたいくらいですがまだ見るものあるんだよなー・・・体力的にももはや限界

空海と密教美術展①

東京。

ちょっと前なら東京行くとか一大事でワクワクしてたもんですが、最近はちょっとそこまで程度の感覚に・・・慣れって恐いすね

空海と密教美術展。

『薬師寺展』『阿修羅展』『東大寺大仏展』に続く仏教系大規模展覧会であります。
東京で開催には第一に派手で認知度がなければなりません。最高の観覧客数を記録した阿修羅展は阿修羅のイケメン(笑)に尽きましたが、ある意味では阿修羅展より重要なものが来ていた東大寺展が意外に集客がなかったあたり、やはり一般人にもアピールできうる「現代的」要素は必須なんだろうなと
そろそろネタ尽きるんちゃうかと思わないこともない

そこで空海です。
誰でも知ってる弘法大師・・・まあ東寺講堂が修理ということが一番の要因なんでしょうけども、半分とはいえあの立体曼荼羅が再現されるとは・・・今回はそれ以外も凄すぎますけどね

金曜は20時まで開館を狙います。始まったばっかだし並ぶほどはいないだろうとの予測どおり、程よい混雑具合・・・並ぶのが当たり前の東京で普通に見れると嬉しくなってしまいます

空海の人生に沿った展示、前半は全てが国宝という彼の書や最澄など周辺の重要書類が主です。どこをどう見れば凄い書なのか良く分かりませんが、空海や最澄の性格が透けて見えるようで面白いです
最初の仏像が現れます

トルファン

国宝・兜跋毘沙門天
相変わらずいかついなあぁー・・・東寺ではこんな近くで見れません。それだけでまず興奮です
桜材ということで唐からの請来像とされるようですが、立体曼荼羅の諸仏と良く似ている気がします。そら同時代のもんやから当たり前かもしれませんが、当時の中国と日本の彫像技術/様式はここまで似通ったものだったということでしょうか

密教法具はまじわかりません・・・いや絵よりはましですが。高野山で見たものもちらほら・・・驚きなのは空海が唐から持ち帰ったものがちゃんと残されていることです。高野山という隔絶した土地というのもあるんでしょうけど、後世の人々の弘法大師への崇敬を感じます。やっぱ聖徳太子は遠いなあ・・・

空海存命中の仏像は殆ど残っておらず、展示の仏像も空海の弟子たちによって造られたものです。
今回何が凄いって、その弟子たちの仏像が一堂に会していることです

第二室、待っていました。そこだけ空気が違う

五分のニ

神護寺・五大菩薩坐像。
遠いわ申し込み制だわで見るのが困難な国宝仏、半分ながらまさかここで会えるとは・・・

これが密教仏か・・・
何度も何度も修理を受けている東寺講堂諸仏ではとても分からない、ある種の濃密さを湛えています。
技術的にも木彫の上から乾漆を重ねることで肉感を出し、それがとてつもなく「艶かしい」。これまでの日本の仏像には全く見られなかった質感です。

仏像を見始めた頃、東寺に行ったときの感覚を思い出す・・・何の予備知識もなく見た立体曼荼羅はあまりに「濃い」ものでした。仏像密度が高いというのではなく、表現が濃いのです。
あの時は求めていたもの(飛鳥的なもの)が違って、いろいろ見て回ってこれはこれで凄いと思い至るようになりましたが、やはりあの時の感覚はある意味間違いではなかったな、と。

誤解を恐れずに言うならば密教仏には偶像としての崇高さやある種の精神性は希薄だと思います。それは像として劣っているとかいうことでなく、それまでの仏教とは違い主役は本尊ではなく僧自身であり、仏像は僧の行う術の装置のようなものではなかったかと。
この2体も、技術的には最高レベルながら、否応なしに引き込まれる何ごとかがありません。代わりにあるのが「艶かしさ」なわけで。

この2体から発せられるゾッとするほどの濃密さは、果たして密教独特のものなのか、大陸特有のものか。
空海は大陸で育った密教を根こそぎ持ち込んだわけで、日本人に消化できる余地はあったんでしょうか・・・こと空海存命中に造られた像となると、大陸の感覚が色濃く残っていたはずで、やはりこの艶かしさには唐の様式を見るべきではないでしょうか。同じく出陳の国宝・獅子窟寺薬師如来などはまんま中国の顔で、当時の密教は相当中国的だったのかもしれません
時代は違いますが、これ以後の中国の仏教様式にもこの雰囲気は継承されていると思います。宋代以降の肉感的な表現など、日本の感覚から遥かに隔たっています。中国の仏像そんな見てるわけじゃないのであれですけど。

ひょっとするとここで僕が感じている違和感のようなものは、中国的な何ごとかなのかもしれません。
これ以後この様式は影を潜めていくのも、感覚的に日本には合わなかったのではという推測もできます。

こっから、本尊オン・パレード。
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OGI

Author:OGI
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